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第2章 光と影の間で 第1話

Auteur: 花宮守
last update Dernière mise à jour: 2025-03-04 07:29:11

「先ほど下の方でお見かけしましたが、わざわざこんな上まで何かご用が?」

 七華さんに問われ、男性は穏やかに答えた。

「近くに住んでいましてね。湖まではちょうどいい距離なので、時々足を伸ばすんです」

 嘘は言っていないように思う。私は、無意識のうちにそう判断した。

「私たちをご存じなんでしょうか。だって、くノ一って」

 私の問いに、七華さんがクスッと笑った。男性は、心なしか目が優しくなったような。

「舞台装置に敬意を表したまでですよ。聞き流してください」

 笑いを含む落ち着いた声に、気持ちが和む。彼は歩み寄り、私たちに近付いてきたかと思うと、すっと通り越した。靴を履いていることを計算に入れても、やはり晧司さんより背が高い。彼はそれから数メートル進んで立ち止まり、振り返った。

「いつもは湖の反対側を歩いています。今日は新たなルートを開拓しようとこちらへ来てみたんですが、幸運でした」

「どういう意味でしょう」

 七華さんの声には、いまだ警戒心がこもっている。春日さんが話していた「若い男」が彼なら、不審者ではないと一度は判断したはずなのに。

 七華さん、何を心配しているの?

「美しい女性に山の中で巡り会う。最高の幸運でしょう。あなたがたは、狸にもあやかしにも見えませんしね」

「泥のごちそうを食べさせられることも、生き肝をとられることもなさそうだと?」

 昔話の例を出してみると、彼は眩しそうに目を細めた。

「そういうことです。では、いずれまた」

 草を踏むかすかな音。背筋をまっすぐに伸ばし、休日を楽しむ青年にしてはややまじめすぎる印象を与えて、曲り道の向こうへと消えていった。

 その日、私の心の底に、言葉にならない温かいものが生まれた。

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     目が覚めたのはお昼過ぎ。体もベッドも綺麗になっていた。光が眩しい。カーテンを開けると、台風は通り過ぎていた。乱暴な洗濯機の中に放り込まれていたような世界は、すっかり洗われて輝いている。  何も着ないでベッドから出た私の体には、晧司さんに愛された赤い痕。そこに触れただけで、熱い瞬間がよみがえる。お腹の奥に残る充実感。 「なぜ……」  疼く胸は、私が忘れた答えを知っている。昨夜、私は晧司さんのもので、晧司さんも……私のものだった。決定的な言葉はなかったけど……。  カーテンを握りしめて嵐の夜を反芻していると、どんどんいけない気持ちになっていく。振り切るように、シャワーを浴びにいった。 怠い体を励ましてリビングへ行くと、晧司さんの姿はなかった。情事の名残は拭い去られている。部屋の様子は、昨夜私が帰ってきた時とあまり変わらない。 「まだ起きてない……?」  彼の寝室は、私の部屋の隣。静まり返っていたから、もう起きているものだと思っていた。引き返して寝室の前まで行くと、中から扉が開いた。重い足取り。前髪が乱れ、顔色の悪い晧司さんが、私を見て瞳を揺らした。素肌に夏のガウンを纏っている。 「リン、昨夜は……」  声もひどい。体がふらついて、私の方へぐらりと倒れそうになったのを、壁に寄りかかってかろうじて支えている始末。 「二日酔いですね……」 「そんなことはいい。昨夜はすまなかった。私は君に……ゴホッ」 「『そんなこと』じゃありません。ベッドに戻ってください。私につかまって」  頭痛に障らないように声を落とし、彼を寝かせて窓を開けた。 「少し、空気を入れ替えますね。冷製のスープがあるから、持ってきましょうか?」 「うん……それもいいが、頼みがある」 「何でも言ってください」 「春日を呼んで、君はこの部屋には近付かないことだ。無理に私の世話を焼く必要はないんだよ」 「春日さんですか? 明日みえますけど、その前にお仕事のお話があるなら……」 「そうじゃない。こんな男に関わってはいけないと言っているんだ」  私に向けた背中は、反対のことを訴えている。リン、行かないでくれ――っ

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第21話*

     頭も心も、とろかされていく。晧司さんの冷たい炎は、私に火をつけ、彼自身をも高めていく。「んっ……あ、あ……そこっ……」「リン、いい子だ……何度でも、ほら……」 いつ終わるとも知れない、途切れることのない執拗な行為。服を着たままの彼に後ろから抱きかかえられ、ソファーが時々きしむ音と、絶え間ない水音が羞恥を煽る。もう何度達したかわからない。煌々と明かりの灯るリビングで、私だけが生まれたままの姿で……。外は雷雨。行為が始まった時から遠くで轟いていた雷鳴。今は、私のあられもない姿を知らしめるかのように、連続して稲妻が閃いている。「晧司さん……晧司さん……」 気持ちがよすぎて、けれど状況に混乱して、掠れた声で名前を呼ぶことしかできない。彼はとろとろになった私を食べてしまいそうなくらい、頬に、耳に、肩に、熱い唇を押し付けてくる。汗といろいろなものが彼の服を濡らしていく。顔が見たくて後ろを向いた時、目が合って胸を衝かれた。何て切ない瞳――。「その目はいけないな。まったく君は……」「あっ……待って、晧司さんっ」 抵抗する間もなく、ソファーに仰向けに寝かされた。繰り返されたオーガズムで力が抜けていたせいもある。それまで頑なに服を脱がなかったのが嘘のように、下半身を露わにした彼は、いつも「おはよう」と言う時の顔で優しく笑った。反射的に気が緩み、次の瞬間にはもう、圧倒的な質量の侵入を許してしまっていた。 痛くはない。不快でもない。でも、心が追いつかない。体は悦んでいる。これを待っていたのだと……これが欲しかったのだと、奥へ奥へと彼を受け入れる。呼吸を乱して一糸纏わぬ姿となった彼は、私を宥めながら突き、擦り、揺さぶった。叩きつける雨の音を聞きながら、激情の波に攫われていく。 動きが制約されることに焦れてくると、晧司さんはつながったまま私を抱え上げ、私のベッド

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第20話*

    「晧司さん……?」 「お帰り、リン」 「起きてた……?」 「かわいい気配と、石鹸の香りでね」  髪を弄ぶ指にドキッとした。腰を抱く大きな手も、夕李との行為を連想させる。 「ん? 今日はどんな悪いことをしたんだ? 言ってごらん」  耳を食べられてしまいそうな囁き方……背骨をすーっと撫で上げる触れ方……頭のてっぺんから足の爪先まで、ゾクゾクと電流が走る。  ――この感じ、知ってる! 「リン、答えるんだ」  髪をよける手つきも、私を射竦める目も、優しい従兄のものではない。男の人のもの。酔っているから? 寝ぼけて、昔の私と話しているつもりかもしれないし……何だか、怖い……。 「ンッ……」  腰から下の形を確かめるように丸く撫でられて、甘い声が漏れた。 「ほぅ……情熱的だ。さすが、若いな」 「え? ……あっ」  髪で隠していたキスマーク。晧司さんは、寝間着の襟から覗くそれに爪を立てた。 「ん、んっ」  局所的な鋭い痛みが、体の奥まで浸透する。いやがっていないどころか悦びさえも感じる自分に、戦慄を覚えた。体を反転させられ、彼がのしかかってきた。「よく見せなさい」とほかのキスマークに噛みつかれ、体中を点検するように脱がされていく。彼の肌の温もりに、泣きたくなった。 「はぁ、あ、ん……」 「もっと声を出して……素直になりなさい」  素直に、って……。夕李が付けた痕を上書きされ、背中も太腿も点検されて……足の指の一本一本まで、「私のものだ」と教え込むかのような念入りな愛撫。どっと溢れる愛液。濡れそぼった秘所を、晧司さんは異様な目で見つめた。 「や……恥ずかしい」 「許したのか? ここを」  氷のように冷たい声。思い切り首を横に振った。 「確かめなくてはな……」  侵入してきた指を、私の体は拒まなかった。

  • 愛は星影に抱かれて   第2章 光と影の間で 第19話

     ラグにぺたんと座り、ソファーの縁に手をかけて呟いた。あなたはこの世の何より私を大事にしてくれるけど、私たちはただの従兄妹同士。夕李は私を愛してくれていて、私も心が動いたはずなのに、受け入れることができなかった。二人とも悲しそうで、それは確かに私のせいなんだ。「どうすればいいっていうの……」 起きてよ。教えてよ、晧司さん。あなたは全部知っているんでしょう。知識だけで構わない。経験として思い出せなくてもいい。今すぐ、知りたい。「り、ん……」 ハッと顔を上げると、彼は安心しきった笑みを浮かべていた。夢を見てる。今ではない、以前の私の夢だ。晧司さんのことを、たくさん知っていた頃の私――。 たまらなくなって立ち上がり、自分の部屋へと逃げ込んだ。 私の部屋は、奥のドアから専用のお風呂場へ行ける。すっきりしない気持ちを洗い流したくて、シャワーを浴びた。洗面所にもなっている脱衣所の鏡を覗くと、何をしてきたのか一目でわかる痕がいくつも付いていた。夏のワンピースタイプの寝間着では隠し切れない。髪を垂らしてごまかした。「晧司さん、大丈夫かな……」 さっぱりとした体で考えれば、自分の子供じみた振る舞いが恥ずかしくなる。悲しんでみても始まらない。デートが失敗したのは、私の心の準備が足りなかったせい。夕李は、待つと言ってくれた。今夜のことで、お互いに悪感情を抱いたわけでもない。 晧司さんの方は、妹の初デートで気を揉む兄のような気持ちだったのかもしれない。あれだけ過保護なんだもの、考えすぎてしまう前にお酒に逃げることは十分に考えられる。説明のつかないことが多いにしても、目の前の情報を的確に読み取る努力はできる。私が彼の立場でも、居ても立っても居られないだろう。 八月といっても、この辺りは朝晩の気温が低い。あのままでは風邪を引いてしまう。気になって見に行くと、体勢を変えることなく眠っていた。引き続きいい夢を見ているのか、表情は穏やか。ぐちゃぐちゃだった私の心も静まっていく。「リン……そっちへ行ってはいけないよ……リン&

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